第137回:トヨタ喜一郎さんの選択とは?

こんにちは~、ネオフライトの宮川壮輔 です。

さて、今回は、豊田さんのお話し。
実は、特許庁で、日本人の10大発明家という
方々を紹介しています(^_^)b

http://www.jpo.go.jp/seido/rekishi/judai.htm

 

特許庁に行くと、これら10人の像があります。
その中の筆頭にあるのが、豊田佐吉さん。
彼が10代のころ、明治18年に、
「専売特許条例」が公布されました。

おそらく、この頃の日本人で、
特許の価値や可能性を感じ取れた人というのは、
かなり少なかったんじゃないでしょうか。

豊田佐吉さんは、特許をうまく使って事業を
成功させた最初の日本人だったようですな(゜ロ゜屮)屮

彼が作ったのは、いわゆる織機です。
安くて簡単に使える動力織機を作って特許を
取りました。

それからさらなる自動織機を作って、豊田紡織
として拡大していきます。

ときは、産業革命後の織物の需要が爆発して
いた頃でした。

自動織機によって、豊田一族に莫大な利益
が転がり込みました(・o・)

豊田佐吉さんが亡くなったあと、会社を
引き継ぐのは、息子・喜一郎さん。

会社というのは、稼いだ利益を新たに投資して
新製品を生み出していく必要があります。

外部環境に合わせて、いろいろ変化しないと、
会社は生き残っていけませんからね~。

さて、息子・喜一郎さん、自動織機で得た利益を
どの分野に投資したのでしょうか。

時代の流れを読んで、綿紡績の次の技術を予測します。
そう、喜一郎さんが選んだのは、社長もご存じの通り、
「自動車」です。

これが、後の豊田一族の反映を決定づけました。
それにしても、さすが、豊田一族、
オヤジも凄ければ、息子も凄いですな(゜Д゜)

しか~しである。
一言、付け加えておきたい。
当時、自動車産業に参入するというのは、
並のことではありませんでした。

巨額の投資を必要とするのにもかかわらず、
成功する可能性は低い(´д`)

当然、幹部のほとんどが反対しました(`ε´)フン
豊田の幹部の一人の言葉を紹介します。


世間では冷やかし半分にながめていたほどのものだ。
それも世間ばかりではない。
豊田部内でも、必死に自動車に取り組んでいたのは、
喜一郎さんとその一党の「火の玉」組だけで、
その他はおおよそ「これは困りものだ」という
総批判であった。

リスクを背負い込んで、世界NO.1を必死で目指して
来た者だけに、大成功は与えられるのかもしれませんな。

それでは、また次回。

 

ネオフライト国際商標特許事務所
弁理士 宮川壮輔

 

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