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ようこそ、プロフィールページへ! このページでは、私のプロフィールを詳細に書き綴っています。 これでも、一生懸命生きていますので、みなさん、よろしくお願いします(笑) ........................................................email:miyagawa.s@gmail.com |
ネオフライトクリエイションズ
ネオフライト国際商標特許事務所
代表 特許開発コンサルタント
弁理士 宮川 そうすけ
TEL:03-3513-7576
FAX:03-3513-7578
My Profile
・1969年(昭和44年)5月16日
千葉県船橋市に未熟児として生まれまる。
私は、生まれたときに、泣き声をあげることができませんでした。
医者にもあきらめられました。
生まれた瞬間から、厳しい人生のスタートです(笑)。
しかし、生きるために貪欲に栄養を吸収し、何事もなかったかのように無事に育ちました。
この年、テレビアニメの「サザエさん」が放送開始。
また、アポロ11号が人類初の月面着陸に成功しました。
その後、小学校、中学校、高校と、千葉で育った筋金入りの千葉県人です。
・1976年(昭和51年)4月・・・6歳
千葉市立幕張小学校 入学 その後、幕張「南」小学校へ
とにかく、「ガンダム」に夢中でした。
いまの私の20%は、「ガンダム」でできています。
また、マンガ「キャプテン翼」、「リングにかけろ」を読みふけってました。
志那虎の神技的ディフェンスは最高でしたね(笑)
映画も大好きで、このころの将来の夢は、映画評論家でした。
小学生の頃から、エンタメの世界にどっぷりとつかってましたね。
・1982年(昭和57年)4月・・・12歳
千葉市立幕張中学校 入学
とにかく、「北斗の拳」にやみつき。
このころ、ヘビメタにもはまってました。
大好きだったのは、「トゥイステッドシスター」の「ディースナイダー」。
まさに、西洋のモンスター(笑)
・1985年(昭和60年)4月・・・15歳
日大習志野高校 入学
とにかく、「ドラゴンボール」ですね。
さらに、高校時代といえば、「BOOWY」。
私の青春時代のBGMは、いつも「BOOWY」だった。
このころから、バンドを始めてみました。
ちなみに、私はベース。
「DEEP PURPLE」とか「ALFEE」とか、やる気無しのいい加減なコピーバンドでした(笑)
・1988年(昭和63年)4月・・・18歳
成蹊大学文学部文化学科 入学
大学時代は、とにかく、あきっぽくて、いい加減、何やっても長続きしないダメダメ人間でした。
この頃は、建設的なことをほとんどせず、友人の家を泊まり歩いては、パチンコ・パチスロに入りびたり、帰ってきてはプレステやりまくりの自堕落な生活。
挙句の果てに、ある流通系の金貸しに手を出して、ちょいと1〜2万円のはずが、気付いてみたらあれよあれよと30万。
借金はあれど、金は無し。
バイトしようにも、とにかく長く続かない。
1日でやめるのは当たり前、最短で3日でクビになり、金を借りてはまたパチスロ。
このころは、ほんとにダメダメでしたね。
・1991年(平成3年)4月〜翌年3月・・・21歳
このまま行けば、借金50万、100万と増えていくのが目に見えていたので、さすがに、人間ダメになると思い、大学4年のときに1年休学して、朝から晩まで毎日毎日バイト三昧。
30万の借金も耳揃えて全額返済。
エンタメ好きの延長でテレビ局でもバイト。「夜のヒットスタジオ」にも出演しました。
その後、落合信彦のような国際ジャーナリストにあこがれて、22歳のとき、前途洋洋で8ヶ月ほどカナダに留学。
世界中の国の人々とのコミュニケーションは、私の価値観に大きく影響を与えました。
髪の色や肌の色が違っても、人間はみな同じだということがよく分かりました。
・1992年(平成4年)4月・・・22歳
カナダから帰国。
しかし、周りはすでにガチンコ就職活動中。
浦島太郎のこの私、ボーっとして就活の波に乗り遅れ、受けた商社すべて落ちまくり。
商社で世界を飛び回り、その後に国際ジャーナリストに転身する夢をあきらめました。
まあ、本当は最初からやる気はなかったんですけどね。
とにかく、卒業単位が足りなくて、1科目救済制度により、なんとかギリギリ卒業。
掲示板の卒業者リストの中に、私の名前が無かったときは、かなりあせりましたね。
ひ〜、あぶない、あぶない。
ちなみに、卒論は、「マーチンルーサーキングとマルコムX」について書いたような気がします。
・1993年(平成5年)4月・・・23歳
結局、近鉄百貨店に入社 不思議なものでデパートマンになりました。
日用品やキャラクターグッズを、会社相手に企画・販売する営業マンです。
エンタメキャラクターなどをオリジナル商品として販売してました。
この会社で、社会の厳しさを、いやというほど、しこたま教えてもらいました。
とにかく、人に恵まれましたね。
やる気無しのいい加減な新入社員でしたが、よく怒ってもらいました。
おかげさまで、いい加減さは無くなりましたね。
当時の方たちには、本当に感謝しています。
ちなみに、営業の成績は、特別良くも悪くもなし。
やっぱりここでも中途半端でした。
社内の人たちは皆すばらしく、いい経験させてはもらったけど、未熟児上がりの自分に何ができるのか、どのような社会貢献ができるのか、やりたいことが分からなくて日々悶々としてました。
・1997年(平成9年)4月・・・27歳
営業時代のこのころ、本屋で友達に言われた運命の一言。
「お前、弁理士になれよ。」
これまで、「弁理士」という言葉すら知りませんでした。
でも、このとき、弁理士の仕事内容が書かれている本を見て、「これだ!」と電撃が走りました。
なぜなら、仕事でオリジナルグッズなどを作るときに、大きな壁となって散々苦しめられた「特許」や「商標」などをプロフェッショナルに扱う職業だったからです。
世の中にこんな職業があったなんて…。
自分が弁理士になれば、同じように苦労している人たちの力になれるはず…、と。
そして、決めました。
「知財の世界に賭けてみる!」と。
・2000年(平成12年)2月・・・30歳
弁理士試験というのは、何やらかなり難しいらしく、私みたいにあきっぽい人間が受かるのかどうか不安でした。
それでも、今より上を目指すため、勇気を振り絞って、7年務めたデパートを辞めて、弁理士試験に専念。
失敗の許されない、まさに背水の陣。
1日10時間以上の勉強を2年半ほど続けました。
1年目、2年目は不合格。
3年目の論文試験の合格発表の日、特許庁まで見に行きました。
落ちてたらどうしよう。
これ以上は、無収入で浪人するお金は無いし。
昼食は、毎日毎日、パン一つ。
やばい。心臓がバックバク。
流れるのはブルーハーツの「終わらない歌」。
「
真実(ほんと)の瞬間はいつも〜。
死ぬほど怖いものだから〜。
逃げ出したくなったことは〜。
今まで何度でもあった〜。
」
死ぬほど怖い。
特許庁の中に入る。
こちらの緊張をよそに、特許庁の建物は、あくまでも無機質・無表情。
それがちょっとうらめしい。
コツ、コツ、コツ、という弱々しい靴の音が、心臓のバックバクを加速させる。
掲示板の前には、ちょっとした人だかり。
後ろに並んで順番を待つ。
掲示板との距離がみるみるうちに近づいていく。
や、やばい。
合格者達の受験番号の数字が見えてきた。
わ、わたしの、、番号は、、、、、、、
上から、、、順番に、、、、
も、もうすぐだ、、、
ん?
、、、
、
あったど〜!
いや、待てよ。
落ち着いて、もう一度確認してみなきゃ。
間違ってたらシャレんなんないしな。
どれどれ。
ん〜っと、
うん、
よし、確かに番号あるで〜!
や、やった〜!
これで、ようやく浪人生活が終わるで〜。
こうして、3回目の試験で、何とか弁理士試験に合格。
・2002年(平成14年)11月・・・33歳
志賀国際特許事務所に入所しました。
毎日毎日、1日中、特許明細書作成の日々。
とにかく上司からの修正地獄。
つらくてつらくて、もう泣きながら作ってましたね。
本当に毎日仕事が嫌で嫌でしょうがなかったです。
でも、いままでの私みたいに、適当にやめる訳にはいかんのですよ。
知財の世界に人生賭けたんだから!
日々の猛特訓の後、どんな発明がきても、ほぼ大丈夫と思えるようになったのは、3年くらい経ってからでしょうか?
それにしても、ここまで来るのに本当にしんどかった〜。
ここでも、またまた人に恵まれました。
この事務所もとても良い事務所でしたよ。
皆さんにとても感謝しています。
・2003年(平成15年)4月・・・34歳
弁理士試験に合格する前から分かっていたことですが、
知財の世界、特に特許業界では理系の知識は必要不可欠。
職場の理解も恵まれ、大学に入り直し理系の勉強を始めることにしました。
東京理科大学工学部第2部電気工学科 入学
社会人として、理系の世界をやり直し。
昼は特許明細書、夜は、毎日毎日、数学と物理の世界に没頭。
気合い入れた甲斐もあり、成績優秀者として、大学院への推薦試験資格を手に入れました。
・2006年(平成18年)4月・・・36歳
東京理科大学大学院 工学研究科電気工学専攻 入学
推薦試験に無事合格し、数少ない推薦枠で大学院に入学しました。
忙しい社会人学生にとって、学部の卒業すら難しいカリキュラム。
大学院への推薦試験に合格できたのは、快挙といってもいいでしょう。
なお、このころ、結婚しましたので、私、学生結婚なんです(笑)
結局、大学&大学院で、計5年間、無線通信の符号の研究に従事。
2008年3月に同大学院を無事終了し、工学修士となりました。
修士論文は、「CDMAを用いた光マルチチャンネルアクセス技術の研究」です。
なお、本業では、このころには、特許明細書だけでなく、中間書類や鑑定、侵害訴訟なども精力的にこなすようになり、特許のスペシャリストになりました。
・2009年(平成21年)4月・・・39歳
ネオフライトクリエイションズおよびネオフライト国際商標特許事務所として、独立。
そして、現在に至ってます。
すっかりいい加減さはなくなりましたが、エンタメ好きでインドアな性分だけは変わっておりません。
今でも、マンガ、テレビ、ゲーム、大好きです。
とにかく、今より上に行くためにこれから起業しようとがんばっているあなたや、すでに起業していて自分の会社を上昇させたいと思っているあなた、私も苦しみもがいてきましたので、そんなあなたを一生懸命応援していきたいと思っています。
なお、このブログのタイトル「知財に翔ける!」とは、27歳のときの私の魂の叫び「知財の世界に賭けてみる!」というフレーズを、飛躍のイメージとして表現したものです。
それでは、みなさん、どうぞよろしくお願いします。
★実績など
・発明・知財相談1,200件以上、特許明細書の作成数百件の知財スペシャリスト。
・テレビや刊行物などのメディアでの実績多数あり。
・関東経済産業局における「知財戦略コンサルティング」の専門家として活躍。
・知的財産価値評価推進センターの評価人候補者。
・2009年 日本弁理士会 常設特許相談室 相談員。
・2009年 日本弁理士会 知財経営コンサルティング委員会 委員
・2009年 著作権法学会